2020.04.24 UP
イングリッシュ・ローズの生みの親 デビッド・オースチン物語Ⅱ
育種家の故デビッド・オースチン氏の足跡を駆け足でたどるシリーズの第2回、前回は70年代が終わるころまでのデビッド・オースチン氏の育種の歩みを紹介しましたが、今回は80~90年代を通じていかにイングリッシュ・ローズが世界に、また日本に広まっていったのか、またその時代のオースチン氏のことを自分の日本での実体験もおりまぜながら書いてみようかと思います。
私は大学を卒業してすぐにバラの会社に入りました。そのとき、目の前に現れた仕事の状況は、「イングリッシュ・ローズ」というバラの、日本での爆発的ブームとでもいえる状況でした。自分が電話をとっている時以外は、常に鳴り続ける呼び出し音、つまり電話を切るとすぐに次の電話がかってくる、夜にお客様からのバラの質問の内容を、英語の本で調べて返事をする……、そんな毎日が続いていたのは、20世紀も終焉に近づいた1997年のことで、まだ、インターネットは世の中に広がり始めたところ、情報を得ようにも、洋書を中心とした文献からしか手に入れることは難しい、そんな時代でした。
人気を博したメアリー・ローズ
現在、インターネット環境が整っているところなら、地球の裏側のことでさえ、すぐさまわかるような状況です。何度も言いますが、物心つくときにはインターネット世界が構築されていた世代には、欧米に、航空郵便でさえ1週間以上かけて手紙が届く状況を想像してくれ、と言う方が難しいのかもしれません。80年代、昭和の時代が終わりを告げようとしている時代というのはまだまだそんな状況だったのです。
60年代70年代を通じて、オールド・ローズの魅力を損ねることなく、現代バラの性能を兼ね備えた品種を開発していくという、その時代の通念からすると前代未聞の旗印を掲げたオースチン氏でしたが、前回にも記した通り、道のりは平坦なものではありませんでした。
品種改良のフィールドで
オールド・ローズのような、優雅な香りを追求すると花の姿形が魅力的でなかったり、非常に美しい花形を追求すると樹形がイメージとちがうものであったり……。そのような試行錯誤を繰り返す日々、そんな中でもデビッド・オースチンが大切にしていたのは世界で最も古く、広く知られているチェルシー・フラワー・ショーへの出展でした。世界的人気を得る前でも、氏はこのチェルシー・フラワー・ショーへの出展には並々ならぬ思いで臨んでいました。結果、2019年までに実に25個のゴールド受賞という素晴らしい記録をつくることになります。この努力がまさに自身の世界的な飛躍への原動力になっていきます。
チェルシー・フラワー・ショーで(1985)
自身の育種の目標を掲げて、最初の品種を発表してから20年ほど経った80年代に、洗練されてきた育種のプログラムはかなりの完成度をもって、現在でも世界中で愛されている美しい品種を次々と生み出し始めます、1983年のグラハム・トーマス、メアリー・ローズ、86年のガートルード・ジェキルなどはその筆頭ともいえます。それらの品種がこのチェルシー・フラワー・ショーで発表されると、まさに世界から驚きの声をもって注目を浴びます。まさに、自身の努力とイギリスという風土が持つ、深い園芸の歴史により培われてきた世界への発信力が相まって、「イングリッシュ・ローズ」は世界に広がっていきました。
ガートルード・ジェキル
時を同じくして、世界的なバラの世界から古典的な魅力を持つオールド・ローズの魅力がじわじわと再び脚光を浴びはじめます。バラと言えば高芯剣弁の大輪のみと思っていた人々は、そのクラシカルな花に「新鮮さ」を覚えるという、一種逆説的状況が現れたのです。そして絶対的に情報量が現代と比べて少ない中、日本でもいち早くその魅力に気づきはじめた人々がさまざまな方法で、少しずつ自身の庭にオースチンが生んだ品種をふやしはじめ、その庭を雑誌などでこぞって紹介し、いわゆる「ガーデニング・ブーム/オールドローズ・ブーム」が日本でも確実に広まり、その中で、イングリッシュ・ローズが主役級の役割を果たすことで、日本中のバラ愛好家の人々の心をつかむ結果となったのです。
グラハム・トーマス
しかしながら、前述のように、現在と比べると、リアルタイムな「情報量」が圧倒的に少ない当時のこと、あまりに急激な人気の上昇に、当時からデビッド・オースチン社の実質的な経営に携わるようになっていたオースチン氏の息子、デビッドJCオースチン氏は今当時を振り返って、「あの当時はクレイジー・ピリオド」と、私との雑談の中で表現していました。
デビッドJCオースチン氏(左)
90年代に入ると、日本でもガーデニング人気と共に、イングリッシュ・ローズ人気が本格化し、愛好家やその「古くて新しい」魅力に虜になった人々は、こぞって園芸店に押し寄せました。ただ、今と比べるとインターネット通販などの流通量と文献などの情報量が圧倒的に少ない状況は、上記のように一種パニックのような状況を生み出しました。日本で2018年終了した、代表的な催し物であった「国際バラとガーデニングショウ」もまさにこの時期にはじまり、人々がイングリッシュ・ローズのディスプレイに大挙して殺到する状態になります。
国際バラとガーデニングショー(2015)
さて、このような世界が異常ともいえる状況に陥っているときに私が初めてイギリス・シュロップシャーの農場に行くことができたのは1998年のことでした、その当時はご存命だったパットさん(オースチン氏の奥様)とオースチン氏と共に町のレストランでディナーをごちそうになり、バラの話をずっとしたことは、今となれば私自身の宝のような出来事でした。ただ、個人的にはフレンドリーに話してくださるオースチン氏も、このころからすでに、フロントマンとして前に出たがらない性格であったせいか、メディアの取材は極力避けているような感じでした。
奥様のパットさん(中)
世の中の爆発的な状況に左右されず、ただただ育種のことばかり考え続けるオースチン氏との最初の出会い後、何度もお会いする機会を得るのですが、そのたびに受けた印象は育種家というよりは、何か哲学者的なものでした。極端な言い方をすると、育種以外のことを排除するような生き方、その育種哲学が、たくさんの世界的な品種を生み出したといっても過言ではないように思います。 3回目は、21世紀に入ってから、インターネット時代のオースチン氏とイングリッシュ・ローズを振り返っていきたいと思います。
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